明治大学生の日常

数学の話や学生生活の話等

こんな時だからこそ勉強

 今日、明治大学学長が学費に関することを述べた文章をホームページに載せた。お世辞にも学生に良い受け取られ方をするとは思えない文章だった。SNS上では不満の声に満ち溢れていた。

 しかし、学長に今文句を言っても仕方がない。沢山の学生たちが不満を持っているけれど、どこまで、金額的な支援、返金を求めているのかは、てんでばらばらである。このままではただのやり切れない気持ちをSNSに載せているだけである。だから、今抗議するのではなく、学校が始まって学生が集団となって、しかも対面で大学側に抗議できるまで少し怒りを抑えるべきではないかと思う。

 したがって、この自粛期間ではSNSで大量の時間を消費するのではなく、できる限りの時間勉強に割いて、自粛期間終了後に時間に余裕を持てるような学力を身につけることを推奨する。実際、バイトも大学に通う時間もない今普段とは比べものにならないくらいの莫大な時間を有している。今できること、今しかできないことに焦点を当ててみませんか?

教科書に載っている√2の証明の疑問

 「√2が無理数である。」という命題を背理法で示すのは高等学校の数学を履修した人なら知っているだろう。背理法を使わずに証明もできるのだが、ここではそれを置いといてなぜ背理法を使うのかを述べる。

 

 まず証明を見てもらいたい

証明

 √2を有理数と仮定すると、√2=q/p(ただしp,qは互いに素な自然数)と表せる。

    √2=q/pの両辺を二乗すると、

       2=q^2/p^2

                    q^2=2p^2     ①

ここで右辺が偶数なので左辺のq^2も偶数である。さらにq^2が偶数ならばqも偶数である。

したがってq=2r(rは自然数)と表せる。これを①に代入すると、

      4r^2=2p^2 

                  ∴ 2r^2=p^2

 したがってpは偶数である。

 ゆえにpとqは共に偶数である。しかしこれはpとqが互いに素な自然数であることに矛盾する。よって√2は無理数である。

 

 見ていてどうだろうか。疑問が湧くはずである。なぜ√2を有理数とおく背理法を使ったのかが。これには存在命題という命題と有理数無理数を理解すれば解決する。

 存在命題というのは文字通り存在することしないことを示す命題だ。例えば、「三次方程式は必ず1つ以上実数解が存在する」。

 有理数の定義は高校ではq/p(pとqは整数)と習う。これをもう少し次元の高い定義にしてみよう。それは「x=q/pとなる整数p,qが存在するxを有理数とする。」だ。また無理数有理数でないと定義する。

 ということは√2=q/pとなる自然数p、qが存在しないことを示せばよい。だから√2=q/pを使って議論できるように√2が有理数と仮定すれば良いのである。

 

 

 

 

 数学的不備があったらご指摘下さい。

 

自己中理論〜世の中に真理はないと悟った男に全米が泣いた〜

 論理的に物事を語るということは、究極的には出来ない。我々はせいぜい論理的らしさを使ってでしか物事を語ることができない。

 なぜなら、我々は必ず、自分の言ったことに対して感情が入る。正確に言えば自分の論理を究極に突き詰めていくと自分の感じ方、価値観に帰着する。

 "人を殺してもよいのか"というのが一番良い例である。これは人間の感情がよく入る面白い。色々な意見があるだろう。自分にされて嫌なことは人にしてはいけないとか、法律で決まっているとか。しかしこれらは突き詰めていくと感情論である。例えば自分にされて嫌なことは人にしないというのは、明らかに因果関係が成立していないし法律で決まっているは法律で決まっているから、じゃあ本当にやってはいけないのかということを説明できない。あくまで我々は自分の価値観と周囲の価値観を照らし合わせ、共通認識である結果を正しさとしているだけだ。そしてズレている場合揉め事が起こる。

 だから、私はリアルな世界で揉め事を起こしたくないので、意見を必要とされるまで意見を言わない。一匹狼とか、そういう厨二病のような理由で周囲と連まないのではなく、むしろ連まないというマイナスの理由で周囲と連むことを避けている。

 そうすることで、周囲と距離を置き、多種多様な価値観を認めることができる。なぜなら私と密接に関係を持たないからだ。 

 逆に私に密接に関係を持ち、邪魔だと感じた人間には不誠実な対応を早急に取る。これで相手が距離を置いてくれないと大変であるが、もっと強力なやり方があるので大丈夫である。 

 それは相手と問題を起こし、そのコミュニティで共通の問題にすることだ。そうすることで上の人間が動きどちらかが何らかの制裁を受けたり、追放されたり、自ら去ることが可能となったりする。まあオススメできるものではないが。

 そしてこれが自己中理論である。みんなもこの生き方を参考にしてみては。いや、するな。

 

体だけ大人になった人間の末路

 今日三本目の投稿。書きたいときに書く。

 

 

 そんなことはさておき、私は年相応の責任能力がおそらくないと思われる。なぜなら、責任を取り方が分からないからだ。例えば、私は車の免許を取るつもりがない。なぜなら、もし車で人を轢いてその人が亡くなった時責任を取れない(そんなものないだろうが)からである。しかも、この時私は罪悪感を抱くだろうか?そうではなく、全力で自分の保身を考えるかもしれない。罰金を払ったり、刑期を満了して、自己完結するかもしれない。自分の乗ってる電車で人身事故起こしたら、別に自分が轢いたわけではないからなんとも思わないかもしれない。

 このように私は常に自分が責任を取れない行為をしないと決めている。立派なのか精神年齢が低いのかは分からないが、このままだと自分の中では酒は飲まない、煙草は吸わない、車の免許を取らない、結婚もしないとなんとも無味乾燥な生活になってしまう。

 なぜ、こんな人間になってしまったのか?恐らく人の言いなりを守るタイプの子供だったからだろう。大人の言うことに盲従していたからだ。だから怒られて謝るということが少なかった。そして責任の取り方、謝り方を学ばなかった。さらに年相応の人格形成をしなかったのだろう。ものすごく私利私欲な人間である。しかも周りにはものすごく謙虚な人だと思われてしまう。実際は自分以外の人間どうなろうがどうでもいいと思っている、全く逆の人間なのに。 

 

 

ぼっちはこの世の支配者

 題名を見て、強がりを言っているのでは?と勘違いする人も多いだろう。しかし、私は本気でそう思っている。ぼっちが何故この世の支配者なのかと、その魅力を語っていこう。

 まず、ぼっちは他の人と違い膨大な自分の時間を所有しており、時間にゆとりが生まれる。これにより、何かをやらなければならないということは学校の課題くらいしかない。

 次に、ぼっちは誰にも気を使わなくてもいいという点だ。集団になると必ず何かしらの確執や軋轢が生じる。それが自分かもしれないし巻き込まれることもある。しかし、ぼっちはそれがない。だから、心の平穏が保てる。

 この二つの観点からぼっちがこの世の支配者であることがわかる。集団生活が出来ないと、社会でやっていけないという意見がある。だが、私は心の平穏を保てない人間関係を構築するくらいなら、わがままかもしれないけどあまり社会に出たくない。元々、私は将来大企業に勤めて、結婚して子供を育てたいなどという夢は皆無とは言わないけれど、諦めている。だから自分のご飯さえ食べられれば良いと考えている。

 

受験産業ほど気持ち悪いものはない

 ネットで勉強法を検索すると、膨大な記事が出てくる。その中には私が不快と感じる記事が沢山ある。どんな記事が不快なのか?それは、こうすれば、絶対偏差値、学力が向上するという記事だ。彼らは自分の受験成功体験や指導経験を掲げ、受験生の不安につけ込み、もっともらしいことを言い、受験生を盲従させようとする。記事を書く人間はは閲覧した相手とは接触しないのだから、何の責任も負わない。果たして、それでいいのだろうか?強い謳い文句に見合ってないと私は感じる。私も高校3年の時2人の教育方針を巡ったいざこざに巻き込まれてしまった。というのは、センター試験で良い点数が取れなかった私が、担任と出願を決めた出した学校があまりに合格可能性が低いところで、それに学年主任が反発したという事件だ。元々担任は、数学以外並以下の私を数学の実力でかってくれ、私に熱心に指導してくれた先生である。しかし、この先生はかなり問題を抱えていた。例えば連絡事項を生徒に伝えない、自分の失敗を正当化して、生徒に八つ当たり、自分の受験指導を聞かない生徒に絶対落ちる、逆に聞いたら絶対受かると煩い先生だった。一方、主任の方は生徒の事務的な作業はきちんとこなし、自主性を重んじる先生だった(まあ自主性を重んじてるつもり、結局自分の価値観の方でしたが)。だから2人は当然の如く衝突、確執が生まれた。私のクラスではセンター前に学校に来ない生徒が現れる程だった。ここでセンター後の話に戻ると、私は学年主任にお前は現実見たほうがいいとか担任の言うこと聞きすぎ、もっと考えろ、浪人の時も担任の言うこと聞くのかと言われた。これに私は非常に頭にきた。正論だとは思った。なぜか?私は高1の途中、つまり担任に会うまでは、自分で考えてやっていた。それを高1の時の担任が高3の時の担任を紹介して、絶対大丈夫と両者太鼓判を押してきた。だから盲従した。私の3年間を否定された気分だった。しかもその後自分の生徒何困ってる時、アドバイスしてやった、俺の言うこと聞くのがいいみたいな、結局あんたも一緒じゃねえかということを言ってきたからだ。こんなぐだぐだな感じで現役の受験は終わった。浪人の時の話は今は書かない。つまり、何が言いたいかというと絶対はないということだ。だからこそ、そういう情報に盲従したり踊らされたりしてはならない。もちろん、自分もそういうことをしていないか注意を払うこともとても大事である。

 最後にこういう経緯が私の教員に絶対なりたくないという理由の一つである。

toeicの単語難しい

 今日から単語とともに文法も始めたのだか、知らない単語が多い。文法問題なので品詞が分かれば大体正解できるのだか、これで良いものか?知らない単語を列挙すると、

 

①agreeable 形 快適な、感じの良い

②agreebly 副 気持ちよく

③addictive 名 添加物

④shareholder 名 株主

⑤norminal 形 ごくわずかの

⑥file 動 提出する

⑦conventinally 副 従来は 

 

これでまだ20問。これにうろ覚えの単語を合わせるととんでもないことになる。一応正解してるので、取り敢えず一周することにした。